益子町は平成の大合併の際、結果的に「単独」で町政運営を行う道を選びました。
小泉総理時代の「三位一体改革」は地方に厳しい側面が多く、足利銀行の一時国有化も記憶に残る。
地方の自治体も地方の経済界も苦難の時期でした。
ケネディ元アメリカ大統領の言葉をもじった「町が何をしてくれるのか?ではなく、私たちが町に何をできるのか」を基本精神とした私の後援会はこうした時代背景だから生まれたのかもしれません。
私が就任したH18年度の益子町の財政は、非常に厳しい状況下でした。予算は66億5500万。数字だけだと分りずらいですが、益子町の人口からするとかなり「緊縮財政」です。
しかし何より町にとってくやしい思いをしたのは、ペンタックスがHOYAの子会社となり、カメラ工場が閉鎖したこと。数百名の雇用が失われるという事態でした。
東京のHOYAにもお邪魔しました。そこで聞かされたのは「益子が悪いんではないんです。日本の工場コストでは、世界市場で太刀打ちできないんです」という言葉。
その当時は「日本の品質が理解されないはずはない」と素直に飲み込めませんでした。しかし、その後のシャープや東芝など、日本を代表するメーカーの苦闘ぶりを見ると世界市場の潮流のなかでビジネスを展開することの難しさを再認識しました。
さて、その一方で「緊縮財政」と町の看板企業の撤退という「逆境」が育んでくれたものもありました。
「自主・自立の精神」「協働の精神」そして 「益子の誇り」です。経済活動においては一人当たりの「生産性」を高めることが求められますが、長期的な「まちづくり」のためには、一人ひとりの「人間力」の向上が不可欠です。これの総和が「町民力」とも言えるでしょう。
私は、益子町の最大の武器は「町民力」と胸を張って言い切れます。自治会の活動や消防団の活躍。交通安全や福祉活動。スポーツの推進に文化活動。年間を通して開催される楽しい催しは、その数・質ともに全国に誇れるもの。健康・環境・地域づくりのボランティアなど、枚挙に暇がありません。
この「町民力」のおかげで、「歳出削減」による財政再建を行いながらも益子の活力が衰えずに済みました。今となっては懐かしい「チャレンジデー」は素晴らしい参加率。負けず嫌いの町民性が良くわかりました(笑) 「土祭」や「花のまちづくり」もこの頃に種が蒔かれました。
そしてこの「町民力」は、益子を襲う歴史的な災害の時にも大いに発揮されることになりました。
2011年3月11日。
この日にちを言葉にしただけで、皆さん一人ひとりがたくさんの事を思い浮かべるのではないでしょうか?町では何十年に一回というレベルの「災害対策本部」を立ち上げました。
たくさんの悲しみ、思い出したくもない苦しみもありました。計画停電にも苦労しました。
だけど、そんな辛い状況の中でも心を温めてくれたこと。気づかせてくれたこともあったのではないでしょうか?
停電の際、ローソクの炎で過ごす時の「家族団欒」の幸福感。屋根にブルーシートをかけ合ったり、節水のための水を融通し合ったりできるコミュニティーや、地域のつながり。「当たり前の日常」の大切さを改めて感じる機会になりました。
また震災をきっかけに町としても「絆」が生まれました。山形県・米沢市との交流やイギリスのセント・アイヴスとの友好都市締結は、その好例です。(昨年9月にはロンドンの日本大使館で盛大に友好5周年の展覧会とパーティーを開催することが出来ました。)
ところが、復旧そして復興が徐々に進み始めたとき、再び自然の猛威に襲われました。
2012年5月6日。
かつてない竜巻災害です。先の地震でやっと再建した家屋も道路のアスファルトさえも捲りあげられ、大木が何本もなぎ倒されました。ビニールハウスなどはもちろんのことです。
そんな自然災害が2つも続く中、死者や大きなけが人が出なかったことは不幸中の幸いでした。「初動」の大切さを歴史的教訓として伝えていかなければなりません。「初動は空振りしてもいいから、行動を起こす」「大きく騒いで、小さく収める」
これらは、改めて痛感した災害対応の原則です。
2013年9月15日
今度は台風18号による大雨。なんと3年続けて町の最大級の警戒態勢「災害対策本部」の設置です。ここ数年、全国的に時間当たり雨量が100ミリを超える!事が稀ではなくなりました。今後、「治水」については新たな認識で対応しなければなりません。
益子町、そして益子町民は3年続けて自然災害という「逆境」に立たされました。しかし、ここでも「人間力」の総和の「町民力」が生かされました。自分も被災しているにも関わらず、弱者救済に奔走する何人もの感動的な姿は今でも脳裏に焼き付いています。
「One For All,All For One」(一人はみんなの為に、みんなは一人の為に)という私の好きな言葉がありますが、災害時はこの言葉通りの益子でした。
余談ですが、財政調整基金という町の貯金が、このころには災害対応に耐えうる状況にあった事はとても助かりました。現在マスコミ等で、国に比べて地方自治体の基金が多すぎるのではないか?という議論もありますが、これからの地球環境を考えると自然災害は必ず起こる。そしていざという時、国や県が迅速に助けてくれるわけではない。だから、町が適切な貯金をしておくことは、今後も必要不可欠です。
ケネディ元アメリカ大統領の「国があなたの為に何をしてくれるかではなく、あなたが国の為に何ができるか」という有名な演説には続きがあります。それは「私たち(行政)が皆さんに求めるのと同じくらい高い水準の力と犠牲を私たち(行政)に求めてください」
皆さんにも努力を求めるけれど、当然行政も努力する。町が大変な時は町民が町を支え、災害などで町民が苦境に立たされた時は町が一人ひとりに心を配り、暮らしを守る。そんな相互扶助の関係・協働の精神が形になって表れていきます。
日本はご承知のように「人口減少時代」に突入しました。
私が小学生の頃は、「人口問題」というと「人口過剰問題」。
日本や世界の人口がこのまま増え続けたら食糧も含め大変なことになる。という論調でした。
今は一転、「人口減少」にどう対応するか?という事ですから、隔世の感があります。
現在1億2千万超の人口が、100年で大正初期と同じ5千万人になるとの予測。
大正時代と比べ物にならない程、東京を中心とした都市部に人口が集中していますので、地方の減り方はもっと急激です。
もう一つ大切なのが「人口構成」。所謂「少子化」です。
この対応策については次の機会でお話ししますが、まず私たちはそういう時代の変わり目に立っているという認識を共有することから始めていきたいと思います。
ただし、悲観論からは益子の明るい未来は築けません。
「益子の長所」をしっかりと生かした取り組みを目的意識を明確にして実行することが大切です。
その為にH27年に
「新ましこ未来計画」を策定しました。
16年前。国の三位一体の改革や合併問題等で、益子町の財政は厳しい状況にありました。
そんな中、「社会に対して、文句や批判だけしても意味がない。自分たちの町を自分たちで良くしていこう!」後援会の仲間や町民の皆さんと共に立ち上がり、共に汗を流してきました。
悪いことは重なるもので財政難による「新規事業の一切の凍結」など我慢の年月の中、ペンタックス・カメラ部門の撤退や、度重なる自然災害にも見舞われました。
どんな逆風でも前向きな心を皆が失うことなく、当時は夢のまた夢だった、「道の駅ましこ」や益子西部地区の「公共下水道事業」なども叶い、こども医療費や保育料の無償化もできるようになりました。
「未来は創れる」 私たちは、この言葉通りのことを実践してきました。
© 大塚朋之後援会. All rights reserved.